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2008年4月27日 (日)

人間進化論

 むかしむかし、ある生物が空を見上げてこう思った。

〝空を自由に飛べたら、天敵のいない世界で楽に生きられるに違いない〟

両手を広げて羽ばたいてみる。

少し高いところから飛び降りてみる。

木と木の間を滑空する。

そして、ついに空を飛べるものが現れた。〝鳥〟が生まれた。

 ある一匹が、〝もっと遠くの地まで飛んでいきたい〟と考えた。

陣形を組むと楽に移動できることを知った。

季節風に乗ると早く移動できることを知った。

左右の脳を交互に休ませることで、一気に海を渡りきることができることを知った。渡り鳥が生まれた。

 ある人間が、24時間眠らずに、たくさんお金を稼ぎたいと考えた。

〝渡り鳥のように、左右の脳を交互に休ませて、眠らずにいられないか〟

人間は、眠る必要がなくなった。

労働基準法が撤廃され、一日中働けるようになった。

感情が消えた。

創造力が消えた。

マニュアル通りにしか動けなくなった。

機械に及ばない、機械人間が生まれた。

経済が衰退していった。

人間の数がジャマになった。

人間は必要なくなった。


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2008年4月26日 (土)

他人の視線

気づかないフリして、視界の隅で確認。

オレを見てるのか?

ブサイクがこっち見てる。

勘弁してくれ。オレは、お前とはつり合わない。

美人と確実に目が合った。

オレを見てどう思ったろうか? 〝あり〟だったろうか?

同年代の男がこっち見てる。

その視線はなんだ? なぜオレを見る?

小学生の集団が、笑いながらこっちを見てる。

オレか? オレを見てるのか? オレのどこかが変なのか?

まわりの奴らが、オレのことを見てる。

逃げたい。消えたい。帰りたい。

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2008年4月19日 (土)

金銭欲が意識を変える


 新たな考えが生まれる。

 同じようなことを考えたやつが表れる。

 そこに金銭欲がなければ、仲間意識が生まれる。

 そこに金銭欲があれば、盗人意識が生まれる。

 

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「人権!」と 叫んでいれば アンパンマン

 暴力を非難するために暴力を使っていたら、暴力は永遠になくならない。

 そんなこと分かりきっているのに、なぜ暴力はなくならないのか。

 それは〝アンパ~ンチ〟が暴力だと気づかないことと似ている。

 正当化はときに真実を大きく歪める。

 自分がアンパンマンだと思い込むな。

 相手がバイキンマンだと思い込むな。

 人はそんな単純じゃない。

 
 

 

 

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「失うのが怖いから、初めからないほうがいい」と自分に言い聞かせ

 自分自身に嘘はつけない。

 正直にいこう。

 ごまかしてばかりいると、本当のことがわからなくなる。

 大切なものには必ず、不安の虫が住みつく。

 どうしてもその虫が気になるのなら、気が済むまでやっつければいい。

 でも、ほとんどの虫は、大切なものを失わせるようなマネはしない。

 それがなくなったら、自分たちだって生きられないのだから。

 

 

 

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2008年4月13日 (日)

感動は常にオリジナル

 私はこの世界のあらゆるものが、プラスマイナスゼロでできているのではないかと予想する。それはどういうことか。

 例えば、お金がある。

 貨幣は人類の発明の歴史の中で、一番優れた発明だという人がいる。

確かに、貨幣が生まれてより便利な生活ができるようになった。

しかし、その不利益な部分も便利さに比例して大きい。

暴力、裏切り、自殺、妬みといった、社会生活においてマイナスな感情をもたらすこともあるのだ。

ある一面をとれば利益しかないように思えるものでも、相対的に見れば不利益があたりを覆い尽くしている、といった構図があったりする。

核エネルギーや自動車やコンビニ、自然破壊や死刑制度やニートなども同じようなことが言える。

利益が注目されているようなものは、不利益が見にくい。逆もまたしかり。

 私は最近、〝感動〟というものですらそうなのではないかと考える。

〝感動〟と聞いて悪いイメージを持つ人は少ないだろう。

しかし、感動が人を殺すこともありえるのではないかと思っている。

例えば、最近あった無差別殺人事件のニュースの中で、犯人のかばんの中から暴力表現の強いゲームソフトが出てきた、という報道があった。

もちろんそれだけで人が人を殺すとは思わないが、少なくとも彼はそういったゲームに感動したはずだ。

その感動は、普通の人が映画や小説やスポーツなどで得る感動と違うものだろうか。

私は同じものだと思う。

違いがあるとすれば、彼の感動が計り知れないほど大きなものだったということではないか。

大きな感動は、不利益な部分も同じぐらい大きい。

 子供が生まれたことで自分自身も大きく変われた、と多くの人がいう。

それは、プラスの感動がもたらしたものだ。

不利益を考えれば、養育費やしつけや夜泣きといった問題がある。

しかし、そういった不利益は、その感動によっていちいち表に出てこない。

たとえ顔を出したとしても、子供の笑顔を見たら忘れてしまうほど、たいていは小さな攻撃の連続でしかない。

その一方で、親が子を虐待したり、ときには殺してしまうことがある。

それはなぜか。

プラスの感動が小さかったということもあるだろうが、それよりも、マイナスが一気に押し寄せた可能性が高い。

ワニワニパニックというゲームを思い出してもらえばわかりやすい。

初めは一匹づつ顔を出していたワニが、終盤になると次から次へと出てくる。

ゲームなら終わりがあるが、育児は苦楽を繰り返しながら果てしなく続く。

プラスの感動という武器では手に負えなくなった親は、誰かの手を借りるか、その場から立ち去るか、電源を切るしかない。

感動は手入れが必要であり、足りなくなったら補充する必要がある。

 プラスの感動はインパクトがあって注目するから、一度に押し寄せてくることが多い。

一方で、感動によるマイナスは、ボディブローのように細切れで襲ってくる。

そのボディブローをないがしろにしていると、いつの間にかダウンしている自分に気づく。

そうならないためにも、感動したときは浮かれすぎず、その不利益に目を向け、早いうちに対処しておくことが大切だろう。

逆に言えば、何もないことを悲観する必要もない。

何もないことは、不利益もないということだ。

つまり、その状況を自分が納得できれば、感動など必要ない。

 感動は常にオリジナルだ。

誰かに感動しろと命令されても、感動できるものではない。

だからこそ、自分しか触れることのできないその感動を、自分自身がしっかり管理しなければならない。

たくさん感動を味わえば善い人間になるとは限らない。

管理しなければ、不利益なものもたくさん詰まっているに違いない。

世の中は、正義や悪といったものを一方的に注目しがちだが、これは〝感動〟という名の一心同体物である。

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2008年4月12日 (土)

ペットショップは完全注文生産制をとるべき

 動物番組によく出てくる映像で、チーターなどの肉食獣がインパラなどの草食獣を襲いかかる瞬間を撮らえたものがある。

お茶の間の視聴者はそれを見て、〝やめて〟とか〝逃げて〟とかいう感想を持つ。

たとえそのチーターが5日間絶食状態であったとしても、飽和社会に生きる私たちがその状況を理解することは、インパラの危機を理解することよりもはるかに難しい。

それはわかる。

でも、ちょっと視線を落としてみると、食卓の上には食べ残したステーキがあったりする。

そこには、多少の矛盾を感じずにはいられない。

 家畜産業をなくしてベジタリアンになれ、などと言う気はない。

私も肉が大好きだし、肉を調理する度にその動物の死を悲しむのはバカらしい。

でも、その切り身の肉が、ついこの前までは命の一部であったことを忘れてはいけない。

切り身のなる木などないのだ。

そして、自分が肉を食べ残すことによって、無駄に命が消費されていることを知らなければならない。

仕留められたインパラは、決して無駄になることはない。

 知らないことは大罪だ。

あなたは全国の保健所で、どれだけの数の動物が処分されているのか知っているだろうか。

その処分方法を知っているだろうか。

私はそれを知って愕然とした。

知らなければ良かったとさえ思った。

だが、現実から目を背けることはできない。

背けることは、自分の手で動物を殺すことと変わりない行為だと思う。

 ペットショップで売れ残った子たちはどうするのか?

 あえて〝子〟と表現した。

なぜなら、たいていのペットは4ヶ月をすぎると商品としての価値がなくなるからだ。

4ヶ月など、人間ならまだ幼稚園に入る前くらいの年齢だ。

そんな子たちが、処分施設に送られたり、肉食獣のエサにされたり、動物実験の実験台にされる。

 〝どうしてそんなことを〟多くの人がそういう感情を抱くだろう。

しかし、それは自分には関係ないという思いこみからの感情だ。

あなたはペットショップに行き、ガラスのケースに入った〝子〟たちを見て、カワイイと思ったことがあるだろうか。

もしあるとしたら、それがいつまでたっても処分が減らない大きな原因の一つだ。

 ペットショップは経営されている。

国民のために慈善事業で行っているわけではない。

洋服や本や家電製品と同じ扱いなのだ。

経営者としては売れる物をたくさん並べたいと考え、ブランドやサイズや使い勝手の良さを世間のニーズから判断する。

でも、すべてのマーケティングが上手くいくとは限らない。

流行は廃れやすいから、ときに在庫が大量に余ることがある。

場所代やエサ代のことを考えれば、売れない子は値下げしてでも早く退かしたい。

それでもダメなら処分を考える。

(人としての感情を別にして)経営者としてはゴミ箱に捨てて、タダで処分してもらいたいところだろうが、それでは〝廃棄物〟処理法違反で罰せられるから、なくなく費用を負担して処分する。

 針金が巻き付いた野良犬や、矢が刺さったカモが報道されることがあるが、処分場で生きたままガス穴の中に自動的に落とされていく動物たちが報道されることは滅多にない。

あるとすれば、一日平均の処分数ぐらいだろう。

臭い物には蓋をしてきた現代人にとってそれは、刺激が強すぎて気分を害することになるだろう、という報道側の配慮があるのかもしれない。

 以前に、〝崖っぷち犬〟としてもてはやされた犬がいたが、あれを見て私は空想した。

保健所の動物たちが、あの崖のマス目に一匹づつ並んでいる光景を・・・。

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2008年4月11日 (金)

エロいのは頭の良い証拠

 鳩は交尾の際、人間のような快感をまったく感じないそうだ。それは脳みそが小さく、想像力による快感物質の分泌促進作用がないためだ。メスの上に乗って羽をばたつかせても、自分がなぜこんなことをしているのか理解できない。

 これは、自慰のできる人間が、すさまじい想像力をもっていることの証明だろう。実際にそこに相手がいなくても、映像があれば十分オーガズムに到達することができる。想像力がなければとてもできない行為だ。

 逆に、映像すら観る必要がなかった中学生ごろから考えれば、想像力は確実に衰えているのかも知れない。中年になると性的欲求が衰えるのも、それを物語っているようだ。

 〝エロい人間=頭が良い〟という定理はわかった。

 では、

 〝頭を良くする=エロさを追求する〟という定理は成り立つだろうか。

 私は成り立つと思う。少なくとも、ボケ予防に性的欲求の維持が重要なのは間違いない。手足の運動が重要だという人がいるが、それは手足を動かすと脳に刺激を与えることできるからだ。そんな間接的な刺激より、性的欲求の維持のほうがよっぽど効果がある。異性を気にすることで、人は若さを維持できる。

 自分のエロさを卑下する必要はない。エロいのは頭の良い証拠だ。ただ、風俗や映像などに頼って欲求の解消しようとするのはもったいない。それでは年齢とともに衰えていく一方だろう。AVをレンタルすることすらできず、本能とわずかな情報のみで行っていた中学生のころの自慰を思い出して、ときには想像のみでイク訓練をしてみるのもいいかもしれない。歴史上の天才たちは、想像力豊かな自慰をしていたに違いない。

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2008年4月10日 (木)

自信満々な夜、不安に押しつぶされそうな朝

 小さなパン屋で働くアルバイトの女性に恋をした。

私がまだ高校に上がる前の話だ。

たまたま通りかかった際、ふと外から窓越しに店内を見やると、高校生くらいの女性がレジを打っている姿が見えた。

その店の売り場はほんの六畳ほどのスペースしかなく、店に入ったら最後、その子に自分の動揺がばれてしまうんじゃないかと思い、とてもじゃないが入っていく勇気はなかった。

それでもその子の存在が忘れられず、用もないのに前の路地をウロウロしては店のほうに目をやっていた。

 ある日の夜、どうにかしてその子に思いを伝えられないかと思い、ラブレターを書くことにした。

きれいめなレター用紙を押し入れから探し出し、あーでもない、こーでもない、と何度も下書きをしながら、ついに完成した。

そのころには、もう深夜二時をまわっていたと思う。

それでも気持ちは高揚していて、布団に入ってからも、どういうふうに渡そうかと頭の中でイメージを巡らせていた。

 朝になって目を覚ました私は、自分が書いたラブレターを読んで恥ずかしさのあまり絶句した。

冷静さを取り戻した頭は、いっさいそれを受け入れようとしなかったのだ。

ラブレターはその場でビリビリに破いた。

家のゴミ箱では家族に見つかってしまうと思い、私は近くのコンビニを数軒まわって、何回かに分けてそれを捨てた。

 朝の脳みそはとても優等生だ。

だから、勉強や創作活動は朝にやるのが効率が良いそうだ。

その反面、現実感がとても鋭く、ナイーブで傷つきやすい。

 夜の脳みそは自信過剰な暴走野郎だ。

非現実的世界に近い観念を抱きやすく、映画を観たりSEXをしたりするのに適している。

その結果、つまらない女と取り返しのつかないことになったりする。

 早起きは三文の得とはよく言ったものだ。

朝飯前という言葉は一説には、朝飯を食べる前ほどの早い時間に行えば物事は簡単に片づけられる、という意味から来ているという。

ニートに夜型の人間が多いのも、こういった脳の状態の作用からきているのではないか。

 現代社会では朝型の脳が重宝される傾向にある。

しかし、私個人の意見としては、面白みがあるのは断然夜型の脳だ。

夜型の脳のせいで不細工な女と寝てしまい、朝型の脳がそれに気づいて狼狽えている姿を想像すると笑える。

こんな面白い物語は他にない。

その後の朝型の脳のあわてた行動が知りたくなる。

 面白みがあるというのもそうだが、世界を大きく変化させることができるのもまた夜型の脳だ。

政治家や官僚がどれだけ束になっても、オタク文化には到底及ばない。

今現在、夜型の脳は朝型の脳から批判を受けやすい構図にあるが、そんなことを気にする必要はない。

この世を面白くするのも、つまらなくするのも夜型の脳であり、朝型の脳はそれに乗っかって無難に事を進めることしかできない。

もっと自分の夜型の脳を可愛がってやるべきだ。

 
 

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死後を考えてみる

 死んだらどうなるか?
 
 これまで、どれだけの人間がこの疑問を抱き、答えを模索してきたことか。

結局、どんな答えも想像の枠を越えることはできず、最終的には宗教などによるぼんやりとした観念を持って、その日を迎えることになる。

 死は恐怖の対象として絶大な力があるが、その反面、魅力的な一面をも持っている。

卑弥呼も織田信長も坂本龍馬も三島由紀夫も、歴代総理大臣も歴代東京大学学長も歴代ノーベル賞受賞者も歴代ジャイアンツ4番バッターも、アインシュタインもサルトルもコペルニクスもガガーリンも知ることの出来なかったもの。

にもかかわらず、どんな人間にもおとずれることになる。

こんな魅力的なものがあるだろうか。
 
 昔のある名俳優の言葉がある。

「死を味わった人間の演技に勝てる奴はいない」

 そこで、私の少ない経験から得た知識を振り絞って、死後の世界を考えてみた。

 まず、生まれ変わることはあるか? という疑問。

私はないと思う。

その理由は、もし生まれ変わるとしたら、この世界にいる生物の総数は、どの時代をとっても一定の数だけしかいないことになる(もし地球以外に生命体のいる星があったとして、すべての星で一定数というのもやはり考えにくい)。

 天国や地獄はあるか?

私はないと思うが、そもそもこの質問自体に違和感を覚える。

なぜならこの質問は、この世が〝普通〟の位置にある世界ということが前提であって、それを挟むような格好で天国と地獄という世界がつくられている。

ひょっとしたら、実はこの世が地獄で、死ぬことによってようやく普通の世界に戻れる――例えば死んだ瞬間、この世ではない〝普通の世界〟にいるおっさんが自分に手を差し伸べてきて、「ようやく罰ゲーム終了だな。みんな待ちかねてたぞ。さあ、お前の番だ。サイコロを振ってくれ」なんてことを言われるかもしれないのだ。

 暗闇に放り出されるのか?

暗闇すらないのではないか。

私が思うに、この世で一番死に近い感覚は、深い眠りだと思う。

くたくたに疲れて家に帰り、知らないうちにソファで寝ていて、気づいたら朝だった、なんて経験をしたことがある人も多いだろう。

そのとき、あなたは暗闇を意識していただろうか。

その間の時間の経過を意識していただろうか。

死はそれよりももっともっと深いと考えれば、暗闇だとか時間だとかいう概念はあまりに小さすぎる。

地球が生まれて約50億年と言われているが、そんな果てしない時間の流れを、あなたは意識して生まれてきただろうか。

 死の恐怖から逃れるにはどうしたらいいか?

完全に逃れるためには死ぬしかないだろうが、恐怖を軽減させる方法はある。

それは宗教などと同じく、観念をもつことだ。

でも、受け入れるだけではなく、自分から生み出すことがよりいっそう重要だと思う。

 まず、なぜ死が怖いのかを考えてみる。

例えば、痛みや苦しみがあるのではないかとか、家族が悲しむのではないかとか、どんな状態に自分が置かれてしまうのかとか。

 次に、死の魅力を考えてみる。

例えば、悩みや苦しみから解放されるのではないかとか、向こうは実は楽しい世界なのではないかとか、誰も知らないのに誰もが味わうこととはどんなものかとか。

 そうやっていろいろ考えることが、自分のためだけの死の観念をつくる。

はっきりとした答えは出なくとも、何も考えて来なかった人よりずっと冷静にその日を迎えられるはずだ。

 最後に興味深い話として、悟るために日々精進しているある修行僧の話がある。

彼らは常日頃から、自分の頭上1メートルほどの高さに浮かんでいる大きな岩を想像しているそうだ。

それが落ちるときは死ぬとき。

つまり、死はいつも身近にあり、ちょっとしたことでおとずれるようなものなのだ、という観念を常に持ち続ける訓練をしている。

死を考えることは生物として正常な証だ。

死を考えることを放棄してはいけない。

 余談だが、無差別殺人犯の声明で、「すべての人間を殺して、自分も死にたかった」といった類のものを聞くことがあるが、私の観念からしたら、そんな面倒なことをする必要はない。

時間の流れのところで話したことだが、死は時間の観念を完全に消し去る。

となれば、自分が死ねば時の流れはなくなり、その瞬間、この世にあるすべての物事は死を迎えているはずだ。

そう考えると、自分だけが家族や恋人と離ればなれになることはありえず、みな同時に死ぬことになる。 

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2008年4月 9日 (水)

自分のために生きるべき

 〝社会のために〟〝人様のために〟〝愛する人のために〟

 言葉としての聞こえはいいが、そこには絶対的に足りないものがある。

それは自分自身という存在だ。

自分勝手に生きろ、ということを言いたいのではない。

どんなことも自分で始まり、自分で終わらなければ価値はないということだ。

 例えば、コンビニのレジ横の募金箱に100円を募金するとする。

どうしてその人物は募金をしたのか。

〝困った人のためになれば〟という感情があったからかもしれないが、それだけでは絶対に募金は出来ない。

なぜなら、人間の感情はもっと複雑だからだ。

もしその感情だけで募金したのなら、財布の中身すべてを募金しなければおかしい。

そのほうが、よりいっそう困った人の役に立つのは明らかなのだから。

でも、そこにはやはり自分という存在がある。

財布の中身をすべて募金したら、困るのは自分だ。

少し嫌な言い方をすれば、困った人を助けたいという気持ちを募金という形で解消する、募金をしたことで自分の存在価値が生まれたような気分になる、ただ単に小銭を減らしたいから募金をする、そのような感情が複雑にからみあって人は行動に出る。

意識はしていなくても、そこには必ず自分の存在価値としての利益がある。

 利益第一主義をとれと言いたいのか?

厳密に言うところの利益第一主義だが、一般的に思われている利益第一主義とはだいぶ違う。

例えば、一般的に思われている悪いイメージの利益第一主義をとるとする。

すると社会通念の中であらゆる不都合が生じ、その結果として、尻ぬぐいをしなければならないはめになる。

人の物が欲しくなったからといって盗めば、逮捕されるという不利益を被る可能性が生まれる。

偽装をして企業価値を上げれば、そのうち謝罪会見を開くことになるかもしれない。

ポイ捨てをすれば、自分の生活環境を汚すことになるかもしれないし、誰かに見られて非難されるかも知れない。

さらに突き詰めて考えれば、あとになって自分自身の心が痛むかもしれないし、痛むことすらできないという不利益になるかもしれない。

つまり、自分から始まり自分で終わるというサイクルの中で、社会通念のすべてを考慮に入れた利益が大切ということだ。

 〝人様の幸せを妬むな〟

私の好きな言葉である。

人の幸せを幸せと思うことは、自分自身が幸せを手に入れることだ。

自分のために生きることは決して恥ずかしいことではない。

むしろ、それが生きることのすべてだ。

 

 

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マスコミは先入観を捨てろ、透明であれ!!

 今朝、めざましテレビで「アルバイトの現状」の特集が放送された。少子化によってアルバイトを確保するのが困難で、どうにかして現状を打破しようと苦心する経営者の試行錯誤を追った特集だ。それを観ていた私は、マスコミの偏った報道の仕方に辟易した。

 現状を示す例として、たこ焼き屋を取材したものだった。髪型自由やピアスOKという特典を与えても、人はなかなか集まらない、とのこと。そんなおり、ようやくアルバイト希望の若者との面接の約束までこぎつけた。約束の時刻は午後8時、そこで7時50分をさす時計のインサートが入る。

「私たちの時代は、約束の10分前までには来ていたものですけどね」店長が言う。

 この一言を入れることによって、自分たちの世代はまっとうで、今の若者はだらしないという印象を視聴者に植え付ける。

 ここで再び時計のインサート、時刻は8時をまわっている。店長は居ても立ってもいられないといった様子で店の前まで出て、(わざとらしく)約束の相手はいつになったら来るのか、と辺りを見渡す。
 
 時計のインサート、時刻は8時30分。

〝結局、彼女は姿を見せなかった・・〟というテロップが入る。

「ま、これからもアルバイトの募集をし続けるしか仕方ないですね」という店長の言葉でVTRは終わる。

 映像は、スタジオのメインキャスターの苦悶の表情に移り変わり、そこで一言。

「アルバイトしないにしても、約束を守らないのはよくないですよ」

 この一連の流れに、私は違和感を覚えずにはいられなかった。
確かに、断りの電話も入れられないような、だらしないやつだったのかもしれない。でも、ひょっとしたら、そう出来ない理由が何かあったのかもしれない。または、本当は10分前には店の前まで来ていたのに、店内の取材カメラが見えて、とても入っていける状況になかったのかもしれない。

 私のこんな考えは可能性が低くく、現実味のないことかも知れない。でも、〝かもしれない〟がある以上、マスコミはそれをすくい取る義務があるのではないか。含みを持たせる報道にすべきではないのか。これでは、一般人が思っているようなことを映像化して、真実味を帯びさせようと仕向けているだけだ。

「最近の若者マナーがなってない」「社会のルールも守れない」「根気がない」「だらしない」
 こういうレッテルのみを多用することは、現実を見にくくする。一般人が他人の表現を借りてそう思ってしまうことも問題だが、一番危険なのはマスコミが先入観によって現実を演出してしまうことだ。報道にインパクトなどいらない。取材する側は、あらゆるものの中立的立場でなくてはならず、限りなく無の存在でなくてはならない。


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2008年4月 8日 (火)

学歴を得ることで、失う物はありますか?

 大学に入学を決断するとき、たいていの人は〝失うこと〟があることに目を向けない。

とりあえず大学を出ておけば一人前になれる気がする。

ちょっと知れた大学ならば、これからの人生胸を張って生きていける気がする。

では、本当に得る物ばかりなのだろうか。

 最近、爆笑問題の太田光が気になる。

なぜ気になるのかと言えば、彼の発言に共感できる部分がたくさんあるからだ。

NHKや日本テレビなどで、今までコメディアンがあまり入り込もうとしなかった政治や教養といった分野にまっこうから勝負を挑もうとする姿勢、これが私の心を揺さぶった。

彼は日大芸術学部を1単位も取らずにやめている。

学歴のない彼が、立派な学歴のある人物に勝負を挑もうとする姿は、まるで竹槍でアメリカ軍に挑もうとする学徒隊を連想する。

しかし、その竹槍はときに鋼鉄の鎧を突き破る。

それは竹槍が特殊というよりも、鋼鉄の鎧を着た人間のおごりがそうさせる。

いくら良い素材を使っていても、手入れをしなければ竹槍ですらそれを貫く。

貫かれた人間は、現実を受け入れられず、右往左往する。

それを見て、太田光は笑っているだろうか。

いや、それは違う。

彼は竹槍で突く行為を良しとしていない。

本当は攻撃ではなく、自己表現で相手を右往左往させたいと考えている。

そこにまた魅力がある。

 彼は突拍子もないことを言って、相手を怒らせる。

その態度が時に人から非難される。

しかし、彼はやめない。

なぜなら、怒らせたことで出てきたボロにこそ、真理に近づく手がかりがあることを知っているからだ。

高貴なものは高貴なままで終わらせてはいけない。

そのままでは必ずおごりが生まれ、退廃していく。

高貴なものを一般市民レベルにまで引き下げ、誰もが使える道具としての幅を拡げなくてはならない。

それこそが現代社会に失われつつあるもので、彼にはその足がかりを作る能力があるように思う。

 本題に戻すと、物事を咀嚼し引き下げる能力は、高貴なものを身にまとった人間にはなかなかできない。

気づいたとしても表現を怠るか、表現できない人間が多い。

一般市民レベルの表現を知らないがために、高貴なままの物事を身にまとって、身動きが取れない状態にいる。

それよりも深刻なのが、自分が身にまとっているだけだということに気づいていない連中だ。

大学は、そういった連中を流れ作業で作り上げているだけのように見える。

もちろん、その中からは素晴らしい人材もたくさん生まれる。

しかし、彼らは大学によって作られたわけではない。

大学で身につけた道具を、自らの力で使い始めることができた人たちだ。

たくさんの良質な道具を腰にぶら下げた大工が、良い家を建てるとは限らない。

逆に、どれだけ知識が豊富な大工でも、道具がなければ家は建たない。

必要な道具が揃ったら、流れ作業のレールからいつでも抜け出せ、足りないと思ったらまたレールに戻れる、そんな仕組みが今の大学には求められているのではないか。
 

 

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2008年4月 7日 (月)

絶対記憶定着術

 わたしはこの方法で、行政書士、宅建、ビジ2級試験に受かりました。もちろん参考書のみの完全独学です。

 方法は簡単。

 まず、受けたい資格の過去問集を手に入れてください。年度別ではなく、体系別にわけられているものがいいです。

 次に、頭の中に風景を用意してください。どこでも構いませんが、近所などよく知っている場所のほうがいいです。初めは、写真などを用意しておくのもいいでしょう。

 過去問集にざっと目を通し、多くページが割かれている項目、つまり論点が複雑な項目をチェックしていきます。例えば、民法でいうところの〝意思表示〟〝代理〟〝抵当権〟、会社法でいうところの〝設立〟〝機関〟〝株主総会〟などです。

 その項目の先頭のページを開くと、いつでもその風景を思い出せるよう、なにか自分なりの説明を書いておきます。写真があればそれを挟むなり、貼るなりします。〝その場所=その項目〟という構図を作るのです。項目内容と場所を関連づける必要はありませんが、もちろん一項目に一風景です。きれいな風景ではなく、日常の風景がいいでしょう。その場所が、その項目のテリトリーということになります。

 法律には必ずといっていいほど、人や物が登場します。つまり、そのテリトリーで物語をイメージするのです。言葉を記憶するのではなく、映像を記憶する。すると、その映像が手がかりとなって言葉が表れます。実体法と違って手続法はなかなか人や物のイメージが掴みにくいですが、慣れてくると、人物が登場していなくても、代替物を頭が勝手に作り出すようになります。そういう方法を使えば、法律以外の試験にも使えるかもしれません。

 ちなみに、私のテリトリーを紹介しますと、〝駅のターミナル=代理〟〝その横の銀行前の路地=信託〟〝家の階段下の並木道=意思表示(主に確定日付ある通知)〟〝その並木道の横の通路=詐害行為取消権〟といった具合です。何も見なくても、場所をイメージするだけで言葉や論点が出てきます。すぐに記憶できるようなものは、勝手に風景から出ていき、次第に自分の苦手なものだけがそこに留まるようになります。 試験を受けて三年ほどが経ちますが、いまだにその場所に行くと記憶した項目を思い出します。だいたい20ぐらいは残っているでしょうか。なにげなく散歩していると、ときおり法律用語が頭に飛び込んできて、困ったものです。

 最後の忠告として、いま説明した方法は記憶定着術であって簡単記憶術ではありません。楽して記憶する方法はないのです。時間をかけ、継続し、何度も繰り返すことでしか記憶はできません。でも、楽しんで記憶する方法はいくらでもあります。忘却を恐れず、試験の先を見据えて勉強したいものです。

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アドリブの利かない日本の政治家

 「誠に遺憾に思う」 「前向きに検討する」 「厳粛に受け止める」

 機械人間を重視する国を象徴するかのような言葉だ。

使い方が間違っているわけではないが、そこにはすでに感情があるとは思えない。

辞書から引っ張ってきたような言葉ばかりが並ぶ政治に、いったい誰が興味を抱くというのか。

 こうなってしまった原因は、探せばいくらでも見つかる。

詰め込み教育の弊害による表現力の欠如、マスコミによる政治家のあら探し、書類主義によるディベート経験の低下・・・。

口の達者な政治家を求めているわけではないが、せめて自分の言葉で話ができるくらいの政治家であってほしい。

全体のその能力の底上げをしなければ、いざ言葉の巧みな人物が表れたときに国民が惑わされかねない。

 国民不在と揶揄されることの多い昨今の政治だが、政治家としては国民の関心のないところで(または、一つの政策に関心を集中させて)政策を行っていったほうがやりやすいに決まっている。

だから、政治は難解でつまらないもの、と国民に植え付けたがる。

わかり難い横文字や、感情のない辞書言葉を用いたやり方も、そういう意味を持っている。

 この仕組みを〝ぶっ壊す〟のは国民だ。

特にマスコミの力が必要になる。

しかし、最近のマスコミもまた政治家と同じような傾向に陥っている。

私はマスコミに〝血税〟や〝机上の空論〟という言葉を使って欲しくない。

一見そこには強い感情があるように見えるが、これは感情表現の怠慢である。

こういった言葉を乱用すると、国民と政治との循環が停滞し、よりいっそう国民不在に陥りやすくなる。

 政治はもとい、マスコミもエリート意識を強固にしてはいけない。

本当の意味でのエリートは、どんな難しい物事でも、多くの人々にそれを理解させ、共感させることができる人物のことだ。

そのためには、借り物の表現ではなく、心の奥底から湧き出てきた自分の表現でなくてはならない。

新聞の社説がつまらないのも、題材のせいではなく、表現のせいなのだ。

言葉というものは、物事を表現するための代替物でしかない。

だからこそ、相手に何かを訴えようとするとき、必死になって言葉を紡がなければならない。

それで、ようやく半分伝わった、といったぐらいの謙虚な気持ちが必要だ。

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2008年4月 6日 (日)

学歴社会を批判しているくせに

 本屋に行って、棚をなにげなく見てまわっていたとき、ある本が目にとまった。

「学歴のある人間に仕事力があるとは限らない。むしろ、青少年期に勉強だけに縛られず、多くの経験をしてきた人間のほうが仕事力がある可能性が高い。だから、官庁は腐りやすく、中小企業は底力がある」

 学歴のない私はそれを読んで、なるほど、いいことを言うな、と共感した。

ざっと一通り読んだ私は、最後のページにある作者紹介のページを開いた。

「○○大学経済学部卒」

 誰もが知る、超有名な大学名がそこにあった。

それを知った私は、どこか腑に落ちない気持ちだった。

名門大学出身が悪いわけじゃない。

ある程度他人から評価されるくらいの人物じゃないと、こういったたぐいの本は出版できないだろうし、もし学歴のない人物が筆者だったら、ただの嫉妬と捉えられかねないだろうから。

でも、本の内容が学歴を真っ向から批判するものなのだから、せめて学校名は伏せておくべきではなかったのか。

 学歴なんて気にしない、学歴で人は計れない、そう考えてる人が大半だろう。

しかし、理屈ではわかっていても、ないよりはあったほうが良い、と思うのもまた事実。

それが、いつまで経っても学歴至上主義がなくならない一番の要因だということになかなか気づかない。

 ひと昔前の多くの創造者は、人の言うことを鵜呑みにして作られる学歴に危機感を抱いていたという。

だから、学歴がなくても、歴史に残る偉業を果たした人物はたくさんいた。

しかし、今の時代、学歴=偉業という構図があちらこちらに溢れている。

芸術の分野ですら例外ではない。

どうしてそうなってしまったのか。

それは、学歴のある人間のほうはチャンスが多いからだろう。

学歴のない人間は、同じスタートラインにすら立たせてもらえないのだ。

 どうしたらこの状況から脱出できるのか。

それは非常に厳しい。

なぜなら、この社会を作った人間たちが、学歴社会の産物だからだ。

これを否定することは自分たちを否定することに他ならない。

わざわざ自分の首をしめるようなマネのできる人物がいたら、お目にかかりたいものだ。

本当に脱出したいのなら、学歴のない人たちで新たな社会を作るか、自らが学歴を手に入れて殴り込みを図るしか可能性はないのではないか。

でも、どちらにしても現実的ではない。

きっと、イタチごっこになるだけだろう。

 本来は、知識が創造をジャマすることもあることを知っておかなければならない。

どんなに知識を頭に詰め込んでも、パソコンには太刀打ちできないことを意識しておかなければならない。

「頭が良い」というのは、持っている知識をいかに料理して創造するかである。

どんなに高級食材ばかりを集めても、やたらめったら鍋にぶち込んではただの闇鍋である。

 いくら言っても、学歴のない凡人発信の言葉では、やはりただの嫉妬からの戯言に聞こえる。

無記名でないと主張できない自分が悲しい。

 

 

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