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2008年5月31日 (土)

ことわざ創作

   「見ざる・言わざる・オシャレに着飾る」
   意味・最近の若者の傾向を皮肉った語

 最近の若者は他人に関心がなく(見ざる)、コミュニケーションもとりたがらないが(言わざる)、人の目を気にしてオシャレにはとても気遣う類人猿。


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2008年5月29日 (木)

子供への接し方、叱り方

 〝子供はとても純粋です〟

そう聞くと、素直で明るくて元気な子をイメージするかもしれません。

しかし、純粋だからこそ悪いことをしてしまうこともあるのです。

とくに、小学校低学年ぐらいまでの子の悪いことは、ほとんどがそれと考えていいでしょう。

人の物が欲しくなって盗ってしまったり、白い壁があれば落書きしてしまったり、好きな子にイタズラをしたり。

そういった事は、生物としての本能的な部分から考えれば、とても自然な行動です。

 そもそも〝悪いこと〟とは何でしょうか?

それは、〝大人の世界(社会)では〟という言葉が前に隠れていることを認識しなければなりません。

サローヤンといアメリカの作家が、こんな短編小説を書いています。

小学校に入ったばかりのある少年が、熟れた梨がぶら下がっている枝を通学路で見つけます。

それは持ち家の庭先に生えている木の果実です。

枝が塀の上から出ているとはいえ、もちろん、その実をもいで自分のものにしてしまえば窃盗です。

しかし、無知で純粋なその少年は、熟れた梨が自分に食べられたがっている、という感覚にとらわれ、なんの疑念もなくその実をもいで食べます。

それもまた、生物間の依存関係からみれば、とても自然なことです。

しかし、そこに社会という囲いができると、それが悪いことに変わるのです。

つまり、まだ社会生活の訓練生とでもいうべき子供たちに、いきなり大人の感覚を押しつけるのは、大人のエゴです。

梨の実を食べたその少年は、そもそも悪いことをしたという認識がないため、すぐに校長先生に事が知れ、容赦なく非難されます。

そのとき少年は何も言い返せません。

少年には反論する術がないのです。

無知で純粋なその少年は、無知で純粋だったがために心に傷を負い、その後、大人になっても苦痛な思い出として残ってしまいます。

 では、〝悪いこと〟をした子供に対して、大人はどう接すればいいのか?

もちろん叱ることは大切です。

しかし、多くの人は、叱ると怒るの区別ができていません。

叱るというのは、相手の心の中の悪をとがめ、諭すことです。

だから、もしその子自身に悪いことをしたという認識を持っていないか、または認識が薄いのであれば、まずその行為が悪いことだと教える必要があります。

そのときこちら側が、怒鳴ったり、泣いたり、素っ気ない態度をとったり、そういった感情的なものを出してはいけません。

つまり、1度目は大目に見るのです。

冷静に、論理的に教える必要があります。

例えば、被害者がいるのならばその気持ちを考えさせるとか、その行為によって自分がどんな不利益を被るのかとか。

そして、同じ事を二度としないと約束させます。

その過程があって初めて叱る権利を得るのです。

 保育士など子供と接する仕事をしている人が、子供と話をするときに、目線が同じ高さになるまで腰を屈めている姿をよく見ます。

それは、内面的な部分でも同じ事です。

大人はどうしても上の立場から物事を判断したがる傾向にあります。

それは、経験による知識が子供よりも豊富だからでしょう。

しかし、子供にとってみたら、それは不可解なプレッシャーでしかありません。

親だろうが、教師だろうが、子供の世界に足を踏み入れるときは、こちらが彼らに合わせることが必要です。

それはレベルを下げるという意味ではありません。

表現方法を変えるという、一つの技術です。

子供は大人の世界に足を踏み入れることができないのですから。

 大人の世界から見ると、子供はたくさんの過ちを犯します。

私自身、未だに忘れられない嫌な思い出がいくつかあります。

大人になった今、それらを振り返ると、「どうしてあんなことをしたのだろう・・」と悔いる思い出ばかりです。

でも、大人になってそれを悔いることができるのであれば、きっと過ちは、大きな経験という財産になるでしょう。

大人は、それをじっくりと見守ってやる必要もあるのではないでしょうか。


 


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2008年5月26日 (月)

なぜ犯罪者は生まれるのか?

 悪いことをしたから犯罪者になった、というのは間違っている。

犯罪者が生まれるのは、法律によってその行為が犯罪と認められているからだ。

極端なことをいえば、〝募金は犯罪〟〝ゴミを拾ったら犯罪〟〝人に笑顔を向けたら犯罪〟と立法で認められれば、これらの行為をした人はみな犯罪者になる。

だから、時代によって犯罪は大きく変化する。

とくに最近では、社会の変動によって犯罪も多様化している。

例えば、インターネットなどの情報化にまつわる犯罪、ドメスティックバイオレンス、ストーカーなど。

 最近では、日本の犯罪が増えて治安が悪くなった、といった報道をよく目にするようになった。

しかし、凶悪犯罪だけを見れば、明らかに数は減っている。

では、なぜ治安が悪くなったという印象をもってしまうのか。

それは、犯罪の種類自体が増えたことにある。

今までは犯罪として扱ってくれなかった事件が、法律の制定によって犯罪として扱ってくれるようになった。

だから、検挙件数だけを見れば、グラフは異常なほど跳ね上がる。

犯罪が増えたというよりも、犯罪になる事件が増えたということだ。

そこに、誤った認識のカラクリが存在する。

 少年犯罪と外国人犯罪が増えた、という認識も間違いだ。

少年犯罪は、少子化による人口減少の割合と犯罪件数を比較しても、ここ十数年間ほとんど変わらない。

外国人犯罪も、ほぼ横ばいか、減少傾向にある。

では、なぜ現状と認識に違いがでるのか。

それはマスコミの報道の仕方にある。

〝少年〟や〝外国人〟という言葉の響きは、成人男性の犯罪よりも事件としてインパクトとがあり、注目を集めやすい。

その結果、同じような犯罪でも、インパクトのある事件を優先的に報道する。

犯罪を研究しているある人物が、一ヶ月間で外国人と日本人の犯罪の報道数を比較した結果、3割程度も外国人犯罪の報道のほうが多かったそうだ。

情報を受け取る側にとって一番重要なのは、何を伝えているのかを知るのではなく、何を伝えていないのかを考えることだ。

 刑法199条に殺人罪がある。

食物連鎖を考えれば、生き物は生き物を殺さずには生きていけないが、人間は人間を殺してはいけない、と法律で定められているのだ。

しかし、その理由までは条文に書かれていない。

道徳観、倫理観から考えれば当然だと思う人も多いだろうが、人間の歴史から考えれば、人命を尊重するような考え方はここ最近になって生まれたといっていい。

道徳観や倫理観では解決できない問題がそこにある。

「一人殺せば殺人犯で、たくさん殺せば英雄」という戦争体験者の言葉があるが、道徳観や倫理観では人殺しを正当化できてしまう可能性がある。

どうして人を殺しちゃいけないの? という質問に対して、あなたはどう答えるだろうか。

人殺しの是非を考えることすらタブー化されている現在、その問いにちゃんと答えることができる人は少ない。

きっと答えはないのだろう。

だからといって、考えなくていいということにはならない。

あたりまえと考えて、常套句を用いたり、考えること自体を放棄していては、社会を形成していく上での人間の怠慢だ。

それぞれが、自分の中にいる殺人者ともっと対話していくべきだ。

 

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世代間でなじり合う

 古代エジプト時代の壁画から、「最近の若者は・・」という決まり文句から始まる、下の世代をなじる文章が見つかったらしい。

どうやら、どの時代の人間も、下の世代をなじりたいという欲求があるようだ。

では、なぜそのような欲求が生まれるのか。

 まず、客観的にこの決まり文句を分析すれば、たかだか一つか二つしか違わない世代間で、人間自体が大きく変わるとは思えない。

DNAの観点からみても、突然変異でもない限り、大きく変化するわけがない。

そうなると、環境が大きく変化した結果が世代間に違いを生んだ、と考えるほうが合理的だろう。

では、その環境をつくってきたのはいったい誰か?

もちろん上の世代である。

下の世代はその恩恵を甘受しているにすぎない。

つまり、「最近の若い者は・・」という批判は、環境を変化させてきた自分たちに向けているようなものだ。

 と、少しあまのじゃく的に分析をしてみたが、実際はその決まり文句に深い意味があるとは思えない。

むしろ、若い世代に目を向けているという意味で捉えれば、無関心よりもずっと良心的ではないか。

ただ、人は物事に対して肯定的な部分を省き、いきなり否定的な部分から入りたがる傾向にあるから、世代間でどうしても受け入れがたい対立感情が生まれてしまう。

実際の構図としては、大部分の肯定の中の、一部分の否定なのだ。

しかし、コミュニケーション不足から、うまくそれが伝わらない。

まるですべてを否定されているかのように捉えてしまう。

上の世代には〝経験〟という強固さがあり、下の世代には〝無経験〟という柔軟さがある。

その真逆の良さが、世代間で〝あうんの呼吸〟を難しくしている。

 なじり合うことは決して悪いことではない。

ただ、もう一歩世代間で歩み寄るためには、認めている部分をお互いが表現し合い、その上で真っ向からやりあうことが重要ではないか。

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2008年5月24日 (土)

下手な自己啓発本より、ことわざ辞典

 前々から、ことわざには興味があったけど、辞書を買うほどのものではなかった。

最近になって多少お金に余裕ができ、暇つぶしになりそうな本を探していて、ナツメ社の「新ことわざ辞典」という本を買ってみた。

そしたらこれが、面白い、面白い。

ことわざというものは、人生の大先輩方の経験論を一文にまとめたものだと思う。

いつの時代も人というものは変わらないようで、今の時代に生きる自分でも、共感できるようなものが多い。

まだパラパラとめくった程度ですが、ちょっと気に入ったものを紹介したいと思います。

 まず一つ、とても有名なことわざで、私の座右の銘です。

    「魚心あれば水心 (うおごころあればみずごころ)」

    意味・相手が行為を示せば、こちらも好意を示そう

凶悪犯罪などのニュースばかりみていると、どうしても他人に対して警戒ばかりしてしまう昨今。

確かに嫌な奴はいるけど、実際はそいつ以外のほとんどの人が良い人ばかりだったりする。

どうしてもマイナスなことは目立ってしまって、プラスのほうにまで色を染めてしまう。

魚心あれば水心で、マイナスの色をプラスの色で染めてしまいたい。

 もう一つ、ちょっとあるあるネタっぽくて面白いなと思ったことわざで、

    「羮に懲りて膾を吹く (あつものにこりてなますをふく)」

    意味・前の失敗に懲りて必要のない用心をする人

 羮は熱い吸い物、膾は冷たいあえ物。

熱い吸い物を食べて痛い目にあった後、冷たいあえ物にまでフーフーしちゃってる姿がおかしい。

どんな偉大なギャグも、天然っぷり炸裂のボケには敵わない。

備えあれば憂いなし、ということわざもあるけど、私はこっちのほうがずっと人間味があって好きだな。

 ことわざの良いところは、毒とか滑稽さとか寂しさとか間抜けさなんかを少し加えている点。

人生なんてそんなもんじゃん、って人生の大先輩の方々から言われているようで、読んでいてとても救われる。

ことわざ辞典を読み込んで、これからもこういった感じで、少しずつ紹介していきたいと思います。

 

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2008年5月22日 (木)

世界の自分と、自分の世界

 世の中には、転職を繰り返す人がいる。

〝この会社は、自分には合わない〟〝自分がやりたい仕事ではない〟〝どこかおかしい〟

そんなことを考えて、他の会社に移る。

でも、やはりそこでも同じような考えに取りつかれ、また同じことを繰り返す。

 どうしてこういったことが起こるのか、

それは、自分と世界が乖離しているからだ。

こういった場合、その世界に自分がいない。

例えば、そこに嫌いな食べ物がある。

ちなみに私は椎茸が嫌いだが、その椎茸は私に対して嫌われようとしているだろうか。

そんなわけはない。

嫌っているのは椎茸ではなく、私自身である。

つまり、自分の世界で、自分は椎茸を嫌っているのである。

自分に合わないのは、なにも相手が合わせてくれないからではない。

自分自身が合わせようとしないから合わないのだ。

 私は椎茸を好きになりたいとは思わない。

この先の人生の中で、大した問題ではないと思っているからだ。

転職ばかりしている人も、同じことが言える。

もし仕事をしなければいけない状況に追い込まれたら、必死になって良い部分をみつけようとするだろうし、自分から合わせようとするだろう。

世界は自分のためだけにあるのではない。

だから、こちらから歩み寄らなければ、決して手を差し伸べてはくれない。

でも、こちらから手を差し伸べれば、必ずなんらかの反応はしてくれるはずだ。

そして、その対象物の中に自分を見る。

そうやって、自分のいる世界を少しずつつくっていく。

自分の世界をつくるのには、忍耐が必要だ。

 

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2008年5月21日 (水)

素晴らしいものを目の当たりにして思うこと

 ある人が興奮気味に言った。

「日光菩薩と月光菩薩、格好良かったよぉ。絶対に観に行ったほうがいい」

一般人はなかなかお目にかかれないその菩薩像が、いま東京の美術館で観れる。

ニュースなどで何度も特集されていたから元々知っていたが、その人のあまりの力説ぶりに、これを逃したら一生後悔するような気になって、私もさっそく行ってみた。

それを目の前にしたときの感想は、正直よくわからない。

〝よくわからない〟というのは、〝つまらない〟とか〝悪かった〟という意味ではない。

抽象的な感想になってしまって申し訳ないが、〝不思議な感覚〟だった。

確かに立派なものだったし、細部に至るまで繊細でいて、堂々とした立ち姿で、面持ちも古い歴史を感じる素晴らしいものだった。

全身に鳥肌が立つような感覚もあった。

しかし、それはその像に対する感動だったのか、テレビで特集されるほどの国宝を目の前にしたという感動だったのか、それとも、身動きできないほどたくさんの人が同じように見上げているという中での自分の状況に対する感動だったのか、よくわからない。

素晴らしいのは間違いないのだが、何が素晴らしいのかわからない悔しさが残った。

いま思い返せば、あのとき本当に自分はその場所にいたのかさえ、よくわからない。

本当に素晴らしいものは現実感を失わせる。

 もし人に「菩薩像どうだった?」ときかれたら、私は間違いなく「すごかった」と答える。

でも、その感想と、実際のその瞬間の感想とはかけ離れているような気がする。

逆に言えば、まっとうに評価できるものは、それほどのものではないのかもしれない。

あの瞬間の自分は、〝圧倒される〟という感覚すらもまるでなかった。

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2008年5月17日 (土)

大衆は考えずに行動する

大衆は個人の集まりではない。

一つの意思を思った、一つの生物だ。

私が思うに、映画「もののけ姫」の冒頭に登場したイノシシの化け物に似ている。

大衆という魔物の力は凄まじい。

ときに社会を大きく変化させることがある。

ときに人を殺すことがある。

大衆は正当性が擬制されているといってもいい。

だから、そこに客観性や批判性は生まれにくい。

権力者はそれを上手く利用しようとする。

だが、大衆性は絶対に必要だ。

それをないがしろにする情報屋は、くだらない。

しかし、絶大な力はときに諸刃の剣になる。

間違った選択をしないためにも、大衆を導く者の倫理観が重要になる。

そして、それを判断する個人の意思だけは失ってはいけない。

情報化が進んだ世界では、倫理観のない情報が錯綜する。

でも、大衆はそんなものに動じてはいけない。

どっしりと腰を据えて、本当に必要なときまで待機していればいい。

必要のないときに動いては、問題をややこしくするだけだ。

暴走はときに自らを破壊する。

それをよく知っている大衆こそが、この世界には必要だ。


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2008年5月15日 (木)

死にたい気持ちを和らげる方法

 〝死にたい〟と思うことは、人間が思考することができるようになったことに対しての、最大の副産物だ。

だから、〝死にたい〟と考えてしまっている自分に対して、決して卑屈になる必要はない。

むしろ、正常な証と捉えるべきだ。

 しかし、やはり〝死〟というものは恐ろしい。

できれば関わりたくないものである。

それが正常だとわかっていても、そのことばかり考えていれば、心身ともに衰弱するのは目に見えている。

正常な思考のせいで自分を殺してしまっては、元も子もない。

 〝死にたい〟という気持ちを完全に無くす必要はない。

これは個人的な考えだが、死に対して向き合うことのできない人間は、魅力のない人間だと思う。

そもそも、そんな奴がいるのかどうかも疑問だ。

 他人がどれくらい〝死〟について考えているのか知らないが、自分はかなり重傷なほうだと思う。

本当につまらないことで、よく〝死にたい〟と考えてしまう。

ひどいときには、「あ~、死にたい」と独り言が無意識に出て、それに驚き、そして落ち込む。

 そこで、どうにかしてこの気持ちを和らげる方法はないか、と考えた。

方法は二つある。

 一つ目は、思考を停止させることだ。

わたしは座禅をおすすめする。

座禅ときくと難しそうに思えるかもしれないが、形式張る必要はない。

なるべく静かな部屋の真ん中に座布団を敷いて、その上に適当に座って目を閉じ、無になることに集中する。

しかし、一度やってみればわかるが、人間、何も考えないということは非常に難しい。

でも、やってみる価値は絶対にある。

無の境地は、空中を漂っているような感覚らしい。

他にも、誰かとお喋りしたり、スポーツなどで体を動かすことも効果的だ。

思考は案外不器用で、何かと同時にするのが難しい。

 二つ目は、〝死にたい〟という気持ち以上に〝生きたい〟という気持ちを起こさせることだ。

単純なことだが、多くの人はこれを実感できていない。

それはなぜか。

〝生きたいと思えるようなことがない〟と考えてしまい、考えることを放棄してしまうからだ。

「一等の宝くじを当てる」「最高にルックスの良い恋人をつくる」「社長に昇進する」

こんな夢物語のような出来事が起こったならば、きっと自分は〝生きたい〟と思えるようになるだろう。

そう考える人も多いかもしれないが、それは大きな間違いだ。

欲望の達成や挫折は、死を現実化させる。

極端に言えば、欲望の先にさらなる欲望がないのであれば、欲望は達成しないほうがいい。

ステップアップではなく、ジャンプアップを狙った欲望は、挫折したときに大きな衝撃があるから、避けたほうがいい。

つまり、〝生きたい〟という感情は、〝欲望を満たしたい〟という感情の持続によって生まれるものなのだ。

だから、その対象物が夢物語である必要はない。

あなたの周囲を見渡して欲しい。

そこにあるすべてのものが、今までのあなたの〝生きたい〟という気持ちを持続させてきたものだ。

そういう一つ一つが今の自分をつくっている。

 ルーマニアのある移住民族は、「一つ一つの呼吸に感謝しろ」という教えを守っている。

消費社会に生きるわたしたちは、生きることの実感を他者にのみ求めてきたのかもしれない。

しかし、本来は自分自身に求めるべきだ。

一つ一つの呼吸に感謝することができたら、〝生きたい〟という気持ちは死ぬまでなくならないだろう。

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2008年5月10日 (土)

クイズ番組のCM

 問題を出しておきながら、〝答えは、番組をご覧下さい〟という番宣CMに腹が立つ。

人間の知りたい欲求を上手くついたCM、と考えて作っているのだろうが、視聴者からしてみたら迷惑の何ものでもない。

私はあまのじゃくだから、そういった姑息な手口で視聴率を稼ごうとする番組は絶対に観ないことにしているが、一度知ってしまった問題を答えを知らないまま忘れることは、とても苦痛だ。

大げさと思われるかもしれないが、バラエティ番組に限らず、番組制作側はそういった部分の配慮も必要ではないか。

視聴率第一主義のメディアが、利益第一主義の企業を批判することはできない。

 ちなみに、個人的な感想として、民放のなかで〝テレビ東京〟が一番まっとうな気がする。

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2008年5月 9日 (金)

頭の良さとは

 〝頭の良さ=記憶力〟

現代社会では、たいていの場合こういった認識を持たれがちだ。

しかし、本来の意味での記憶力は、知識を蓄える手段でしかない。

〝頭の良さ〟はその先にあるはずだ。

 記憶力のみによって〝頭の良さ〟を判断するのなら、人間はコンピューターに勝てない。

では、人間はコンピューターより頭が悪いか?

答えは×だ。

なぜなら、コンピューターをつくったのが人間だからだ。

人間が神を超えられないように、コンピューターも人間を超えられない。(哲学者のなかには、「人間はコンピューターに使われている」と言う人もいるが、それは資本主義社会という制度のなかでの話だ)

 では、人間とコンピューターの違いは何か?

それは創造する力。つまり、蓄えた知識を使って新たなものを生み出すことだ。

極端に言えば、世界一難しい数式を解くよりも、〝1+1=2〟という数式を生み出すほうが頭が良いことになる。

〝クイズ番組で全問正解したからすごい〟というような感情は、結局のところ一芸に拍手を送ることと大差ない。

 〝知識〟は土壌を肥やす肥料のようなものだ。

多くても少なくても、植物はうまく育たない。

たくさん知識を蓄え、それを整理し、不必要なものは捨てていかなければならない。

やたらめったら肥料をぶち込んで、ただ待っているだけでは芽は成長しない。

そんなことをしていては、痩せた土壌でも一生懸命芽を育てようと努力している人間に、すぐ追い越されるに違いない。


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2008年5月 8日 (木)

舌の裏の突起物

 まず、鏡を用意する。

 鏡の前で大きく口を開ける。

 口の中で舌を丸め、舌の裏側を見てみる。

 真ん中に一本の筋と、その左右に青紫色の線があるのがわかる。

 その青紫色の線のすぐ横を、親指と人差し指の先でつまんでみてほしい。

 1㎝ほどのナマズのヒゲのような突起物があるのがわかる。(初めて見る人は、けっこう驚く)

 小学一年生のころ、わたしはこれを発見して軽いパニックを起こした。

 〝自分は普通の人間じゃないんじゃないか〟と本気で考えた。

 今思えば笑える話だが、未だにこの突起物の謎は解明できていない。

 自分のことはすべて知っているように思いがちだが、実際はほとんどわかっていない。

 外観ですらそうなのだから、内面にいたっては、宇宙に匹敵するほど神秘のベールに覆われている。

 自分の一生をかけて、いったいその未知を、どれくらい既知に変えることができるのだろうか。 
 
ちなみに、舌の裏の突起物の存在意義を知っている方、ぜひ教えてほしい。

 

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2008年5月 6日 (火)

ルックスというステータスの必要性

 なぜルックスが良いほうがモテるのか?

その答えは赤ん坊にある。

それは、生物が子孫繁栄を本能的に抱いているとすれば、簡単に説明がつく。

 どんな動物でも、赤ん坊はかわいい。では、なぜかわいい必要があるのか?

それは、赤ん坊の防衛本能と大きく関わっている。

たいていの赤ん坊は自分で自分の身を守るのが難しい。

そこで、親やその周りの大人たちに守ってもらう必要がある。

極端に言えば、かわいいほうが生き延びる可能性が高い。または、苦労せず生き延びられる。

 〝美人OL殺人事件〟といった表題のサスペンスドラマをよく耳にする。

殺されたのが美人かどうかは、人が感心を向けるかどうかにおいて、とても重要なことだ。

実際の事件を伝えるニュースでも、被害者が子供か大人か、女か男か、美人かブサイクかといった要素は、視聴率を大きく左右する。

こんなことからも、ルックスの重要性がうかがえる。

 ここにブサイクな人間がいる。しかし、生きていく能力は高い(例えば、地位、名誉、権力などがある)。

そういう人間には、そこそこ良いルックスの人がつく可能性がある。

となると、その子供はブサイクに多少の箔がつく。

それを繰り返していけば、いずれは有能さに加え、ルックスというステータスを手に入れた子孫が生まれるだろう。


となると、〝ルックス〟は一つの要素というよりも、生きるステータスを総合的に判断するもの、と位置づけられる。

つまり、遺伝子、性格、気質、傾向、頭脳といった、あらゆる人間の要素を外に表す看板が〝ルックス〟ということになる。

 看板は常に磨いておくべきだ。しかし、一代でその看板を大きく変化させることはできない。

所詮はほこりを払ったり、小さい傷を修復したりといった程度で、外観にはほとんど変化はない。

しかし、だからといって諦めてしまっては、これからの自分の子孫に対して、重たい負担を背負わせることになる。

そう考えると、整形は良いアプローチ方法ではないかと思う。

もちろん成功することが条件だが、ルックスが良くなれば生きる能力の高い人間を惑わせることができる。

作り物の外観でも、子孫繁栄の観点から見れば重要な転換期だったという位置づけになる。

作り物がいずれは本物になる。

自分自身が、先祖代々続く看板の後継者であるように、これから先に続く子孫もそれを受け継いでいかなくてはならない。

あなたが自分のルックスに不満だと思うのであれば、それはあなたの先祖が看板を磨くことを怠けていた可能性がある。

あなた自身もその先祖達と同じことをしていては、いつまでたっても子孫繁栄はできないだろう。

ルックスという名の看板を磨くのは、自分のためではない。

それを肝に銘じる必要がある。


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