経済・政治・国際

2008年4月27日 (日)

人間進化論

 むかしむかし、ある生物が空を見上げてこう思った。

〝空を自由に飛べたら、天敵のいない世界で楽に生きられるに違いない〟

両手を広げて羽ばたいてみる。

少し高いところから飛び降りてみる。

木と木の間を滑空する。

そして、ついに空を飛べるものが現れた。〝鳥〟が生まれた。

 ある一匹が、〝もっと遠くの地まで飛んでいきたい〟と考えた。

陣形を組むと楽に移動できることを知った。

季節風に乗ると早く移動できることを知った。

左右の脳を交互に休ませることで、一気に海を渡りきることができることを知った。渡り鳥が生まれた。

 ある人間が、24時間眠らずに、たくさんお金を稼ぎたいと考えた。

〝渡り鳥のように、左右の脳を交互に休ませて、眠らずにいられないか〟

人間は、眠る必要がなくなった。

労働基準法が撤廃され、一日中働けるようになった。

感情が消えた。

創造力が消えた。

マニュアル通りにしか動けなくなった。

機械に及ばない、機械人間が生まれた。

経済が衰退していった。

人間の数がジャマになった。

人間は必要なくなった。


| コメント (0) | トラックバック (0)

2008年4月 7日 (月)

アドリブの利かない日本の政治家

 「誠に遺憾に思う」 「前向きに検討する」 「厳粛に受け止める」

 機械人間を重視する国を象徴するかのような言葉だ。

使い方が間違っているわけではないが、そこにはすでに感情があるとは思えない。

辞書から引っ張ってきたような言葉ばかりが並ぶ政治に、いったい誰が興味を抱くというのか。

 こうなってしまった原因は、探せばいくらでも見つかる。

詰め込み教育の弊害による表現力の欠如、マスコミによる政治家のあら探し、書類主義によるディベート経験の低下・・・。

口の達者な政治家を求めているわけではないが、せめて自分の言葉で話ができるくらいの政治家であってほしい。

全体のその能力の底上げをしなければ、いざ言葉の巧みな人物が表れたときに国民が惑わされかねない。

 国民不在と揶揄されることの多い昨今の政治だが、政治家としては国民の関心のないところで(または、一つの政策に関心を集中させて)政策を行っていったほうがやりやすいに決まっている。

だから、政治は難解でつまらないもの、と国民に植え付けたがる。

わかり難い横文字や、感情のない辞書言葉を用いたやり方も、そういう意味を持っている。

 この仕組みを〝ぶっ壊す〟のは国民だ。

特にマスコミの力が必要になる。

しかし、最近のマスコミもまた政治家と同じような傾向に陥っている。

私はマスコミに〝血税〟や〝机上の空論〟という言葉を使って欲しくない。

一見そこには強い感情があるように見えるが、これは感情表現の怠慢である。

こういった言葉を乱用すると、国民と政治との循環が停滞し、よりいっそう国民不在に陥りやすくなる。

 政治はもとい、マスコミもエリート意識を強固にしてはいけない。

本当の意味でのエリートは、どんな難しい物事でも、多くの人々にそれを理解させ、共感させることができる人物のことだ。

そのためには、借り物の表現ではなく、心の奥底から湧き出てきた自分の表現でなくてはならない。

新聞の社説がつまらないのも、題材のせいではなく、表現のせいなのだ。

言葉というものは、物事を表現するための代替物でしかない。

だからこそ、相手に何かを訴えようとするとき、必死になって言葉を紡がなければならない。

それで、ようやく半分伝わった、といったぐらいの謙虚な気持ちが必要だ。

| コメント (0) | トラックバック (0)

2008年4月 6日 (日)

学歴社会を批判しているくせに

 本屋に行って、棚をなにげなく見てまわっていたとき、ある本が目にとまった。

「学歴のある人間に仕事力があるとは限らない。むしろ、青少年期に勉強だけに縛られず、多くの経験をしてきた人間のほうが仕事力がある可能性が高い。だから、官庁は腐りやすく、中小企業は底力がある」

 学歴のない私はそれを読んで、なるほど、いいことを言うな、と共感した。

ざっと一通り読んだ私は、最後のページにある作者紹介のページを開いた。

「○○大学経済学部卒」

 誰もが知る、超有名な大学名がそこにあった。

それを知った私は、どこか腑に落ちない気持ちだった。

名門大学出身が悪いわけじゃない。

ある程度他人から評価されるくらいの人物じゃないと、こういったたぐいの本は出版できないだろうし、もし学歴のない人物が筆者だったら、ただの嫉妬と捉えられかねないだろうから。

でも、本の内容が学歴を真っ向から批判するものなのだから、せめて学校名は伏せておくべきではなかったのか。

 学歴なんて気にしない、学歴で人は計れない、そう考えてる人が大半だろう。

しかし、理屈ではわかっていても、ないよりはあったほうが良い、と思うのもまた事実。

それが、いつまで経っても学歴至上主義がなくならない一番の要因だということになかなか気づかない。

 ひと昔前の多くの創造者は、人の言うことを鵜呑みにして作られる学歴に危機感を抱いていたという。

だから、学歴がなくても、歴史に残る偉業を果たした人物はたくさんいた。

しかし、今の時代、学歴=偉業という構図があちらこちらに溢れている。

芸術の分野ですら例外ではない。

どうしてそうなってしまったのか。

それは、学歴のある人間のほうはチャンスが多いからだろう。

学歴のない人間は、同じスタートラインにすら立たせてもらえないのだ。

 どうしたらこの状況から脱出できるのか。

それは非常に厳しい。

なぜなら、この社会を作った人間たちが、学歴社会の産物だからだ。

これを否定することは自分たちを否定することに他ならない。

わざわざ自分の首をしめるようなマネのできる人物がいたら、お目にかかりたいものだ。

本当に脱出したいのなら、学歴のない人たちで新たな社会を作るか、自らが学歴を手に入れて殴り込みを図るしか可能性はないのではないか。

でも、どちらにしても現実的ではない。

きっと、イタチごっこになるだけだろう。

 本来は、知識が創造をジャマすることもあることを知っておかなければならない。

どんなに知識を頭に詰め込んでも、パソコンには太刀打ちできないことを意識しておかなければならない。

「頭が良い」というのは、持っている知識をいかに料理して創造するかである。

どんなに高級食材ばかりを集めても、やたらめったら鍋にぶち込んではただの闇鍋である。

 いくら言っても、学歴のない凡人発信の言葉では、やはりただの嫉妬からの戯言に聞こえる。

無記名でないと主張できない自分が悲しい。

 

 

| コメント (0) | トラックバック (0)