社会

2008年6月 1日 (日)

自分を殺す価値を与えてしまう社会

 〝ある種類のカマキリのオスは、交尾後、メスに自分の身を捧げる〟

 〝ある種類のクモのメスは、生まれてきたばかりの子供たちに自分の身を捧げる〟

 〝アンコウの仲間のある生き物は、メスの腹の部分に寄生して、生殖行動とともにそのままメスの体の一部になる〟

自分で自分の命を落とすことは、人間以外の生物でも行われることだ。

しかし、それはどれも積極的な意味での自殺ばかりで、現代人のように消極的な意味で自殺する生き物はいない。

 ではまず、人が殺人を犯すとはどういうことなのかを考えてみる。

(精神的な異常を除けば)そこには必ず動機、つまり、それを犯す価値を見出した人間がいる。

もし、〝あいつを殺すことに何の価値もない〟という感情を抱くことができれば、殺人など起きない。

多くの殺人は、突発的な感情によるものか、殺さないよりも殺したほうが価値があると思ってしまったために起こる。

それは自殺でも同じことが言える。

恐怖や痛みや想像力といったストッパーですら止めることができない〝自殺への価値〟を見出したとき、人は自分を殺す。

 自殺はいつの時代でもある。

しかし、消極的な意味での自殺は、近代に入ってからのほうが圧倒的だ。

その前までの自殺は、美意識によるものが多い。

つまり、カマキリやクモやアンコウの仲間が行う自殺と同じように、積極的な意味での価値を見出した自殺だ。

それはおそらく、社会情勢が大きく関わっている。

あちこちで争いが起こっていた時代は、人々は無条件に〝生きる意味〟を与えられていた。

例えば、戦力としての生命、子孫を繁栄させるための生命、国を豊かにするための生命。

だから、生きる理由がはっきりしていた分、消極的な意味での自殺は少なかった。

しかし現代社会には、その無条件に与えられる〝生きる意味〟が乏しい。

とくに、欧米や中東など宗教観の強い地域とは違って、日本は〝生きる意味〟を個人で見つけなければならない状態にある。

そこで、あらゆる葛藤が生まれる。

国は豊かになったのに幸せは感じられない。子供を産めばお金がかかるし、そうなればお金のための働き続けなければならない。これ以上人口が増えることに、何の利益があるのか。環境問題、エネルギー問題、食糧問題、人種差別、貧困、病気、犯罪・・・。生きることに本当に価値はあるのか?

 人間の歴史から見れば、人口はここ数十年で爆発的に増加してきた。

しかし、それもだいぶ落ち着き始め、あらゆる社会環境問題から考えても、これから再び人口が爆発的に増えるとは考えられない。

今の社会は飽和状態に近い。

おそらくこの先・・・といっても何百年後か何千年後かはわからないが、人口は確実に減っていくだろう。

そうなれば再び、無条件に〝生きる意味〟が与えられる。

なぜなら、生きることに集中しなければ生きていけない時代になるからだ。

つまり、人は死が身近にあると、生に執着しようとする。

それは本来の生物としてのあるべき姿に違いない。

しかし、現代社会だけがその部分がごっそり抜け落ちている。

現代社会の日本に消極的な意味での自殺が多いのは、あらゆるものが飽和状態にあるためだ。

 では、そんな時代に生まれた人は、どうやって生きる価値を見出せばいいのか?

現代という時代は、過去の〝生きる理由がはっきりしていた時代〟と未来の〝生きることに集中せざるを得ない時代〟の狭間の時代ではないかと思う。

そう考えると現代は、〝生きる意味を模索する時代〟という位置づけができるのではないか。

つまり、生きることとは何かを必死に考え、その絶対的な価値を見出すことが私たちの役割であり、その答えがより鮮明ならば、未来の〝生きることに集中せざるを得ない時代〟の人々の生への執着心を養うことになるのではいか。

私たちは、もうこれ以上物理的な生きる価値を見出すことが難しいのであれば、精神的な生きる価値を見出さなければならない。

生きる価値を見出すことは、いつの時代も命がけである。

現代社会では死を考えることをタブー化する傾向にあるが、死を考えることができなければ生を考えることなどできない。

あらゆるものが飽和状態であるからこそ、真っ向から死について考えることができる時代といえる。

もしそれを放棄するのであれば、それは将来の私たちの子孫に対する冒涜ではないか。

確かに死を考えることはつらい。

なかには実際に死を選ぶ人もいるくらいだ。

でも、つらいからやめてしまっては、生きる価値を見出せないまま、ただ生きているだけの人間ができあがってしまう。

そうなれば、人間など、いち早くこの世界から消え去ることになるだろう。

もし、自殺者を減らしたいと思うのであれば、生きる価値を見出すことを個人にだけ任せるのではなく、社会全体でその問題に真っ向から挑むべきではないか。

戦死者とも言える自殺者を、絶対的な悪のまま片づけてしまっていいのだろうか。

このまま、自分を殺す価値を与えてしまう社会でいいのだろうか。


 

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2008年5月26日 (月)

なぜ犯罪者は生まれるのか?

 悪いことをしたから犯罪者になった、というのは間違っている。

犯罪者が生まれるのは、法律によってその行為が犯罪と認められているからだ。

極端なことをいえば、〝募金は犯罪〟〝ゴミを拾ったら犯罪〟〝人に笑顔を向けたら犯罪〟と立法で認められれば、これらの行為をした人はみな犯罪者になる。

だから、時代によって犯罪は大きく変化する。

とくに最近では、社会の変動によって犯罪も多様化している。

例えば、インターネットなどの情報化にまつわる犯罪、ドメスティックバイオレンス、ストーカーなど。

 最近では、日本の犯罪が増えて治安が悪くなった、といった報道をよく目にするようになった。

しかし、凶悪犯罪だけを見れば、明らかに数は減っている。

では、なぜ治安が悪くなったという印象をもってしまうのか。

それは、犯罪の種類自体が増えたことにある。

今までは犯罪として扱ってくれなかった事件が、法律の制定によって犯罪として扱ってくれるようになった。

だから、検挙件数だけを見れば、グラフは異常なほど跳ね上がる。

犯罪が増えたというよりも、犯罪になる事件が増えたということだ。

そこに、誤った認識のカラクリが存在する。

 少年犯罪と外国人犯罪が増えた、という認識も間違いだ。

少年犯罪は、少子化による人口減少の割合と犯罪件数を比較しても、ここ十数年間ほとんど変わらない。

外国人犯罪も、ほぼ横ばいか、減少傾向にある。

では、なぜ現状と認識に違いがでるのか。

それはマスコミの報道の仕方にある。

〝少年〟や〝外国人〟という言葉の響きは、成人男性の犯罪よりも事件としてインパクトとがあり、注目を集めやすい。

その結果、同じような犯罪でも、インパクトのある事件を優先的に報道する。

犯罪を研究しているある人物が、一ヶ月間で外国人と日本人の犯罪の報道数を比較した結果、3割程度も外国人犯罪の報道のほうが多かったそうだ。

情報を受け取る側にとって一番重要なのは、何を伝えているのかを知るのではなく、何を伝えていないのかを考えることだ。

 刑法199条に殺人罪がある。

食物連鎖を考えれば、生き物は生き物を殺さずには生きていけないが、人間は人間を殺してはいけない、と法律で定められているのだ。

しかし、その理由までは条文に書かれていない。

道徳観、倫理観から考えれば当然だと思う人も多いだろうが、人間の歴史から考えれば、人命を尊重するような考え方はここ最近になって生まれたといっていい。

道徳観や倫理観では解決できない問題がそこにある。

「一人殺せば殺人犯で、たくさん殺せば英雄」という戦争体験者の言葉があるが、道徳観や倫理観では人殺しを正当化できてしまう可能性がある。

どうして人を殺しちゃいけないの? という質問に対して、あなたはどう答えるだろうか。

人殺しの是非を考えることすらタブー化されている現在、その問いにちゃんと答えることができる人は少ない。

きっと答えはないのだろう。

だからといって、考えなくていいということにはならない。

あたりまえと考えて、常套句を用いたり、考えること自体を放棄していては、社会を形成していく上での人間の怠慢だ。

それぞれが、自分の中にいる殺人者ともっと対話していくべきだ。

 

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世代間でなじり合う

 古代エジプト時代の壁画から、「最近の若者は・・」という決まり文句から始まる、下の世代をなじる文章が見つかったらしい。

どうやら、どの時代の人間も、下の世代をなじりたいという欲求があるようだ。

では、なぜそのような欲求が生まれるのか。

 まず、客観的にこの決まり文句を分析すれば、たかだか一つか二つしか違わない世代間で、人間自体が大きく変わるとは思えない。

DNAの観点からみても、突然変異でもない限り、大きく変化するわけがない。

そうなると、環境が大きく変化した結果が世代間に違いを生んだ、と考えるほうが合理的だろう。

では、その環境をつくってきたのはいったい誰か?

もちろん上の世代である。

下の世代はその恩恵を甘受しているにすぎない。

つまり、「最近の若い者は・・」という批判は、環境を変化させてきた自分たちに向けているようなものだ。

 と、少しあまのじゃく的に分析をしてみたが、実際はその決まり文句に深い意味があるとは思えない。

むしろ、若い世代に目を向けているという意味で捉えれば、無関心よりもずっと良心的ではないか。

ただ、人は物事に対して肯定的な部分を省き、いきなり否定的な部分から入りたがる傾向にあるから、世代間でどうしても受け入れがたい対立感情が生まれてしまう。

実際の構図としては、大部分の肯定の中の、一部分の否定なのだ。

しかし、コミュニケーション不足から、うまくそれが伝わらない。

まるですべてを否定されているかのように捉えてしまう。

上の世代には〝経験〟という強固さがあり、下の世代には〝無経験〟という柔軟さがある。

その真逆の良さが、世代間で〝あうんの呼吸〟を難しくしている。

 なじり合うことは決して悪いことではない。

ただ、もう一歩世代間で歩み寄るためには、認めている部分をお互いが表現し合い、その上で真っ向からやりあうことが重要ではないか。

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2008年5月22日 (木)

世界の自分と、自分の世界

 世の中には、転職を繰り返す人がいる。

〝この会社は、自分には合わない〟〝自分がやりたい仕事ではない〟〝どこかおかしい〟

そんなことを考えて、他の会社に移る。

でも、やはりそこでも同じような考えに取りつかれ、また同じことを繰り返す。

 どうしてこういったことが起こるのか、

それは、自分と世界が乖離しているからだ。

こういった場合、その世界に自分がいない。

例えば、そこに嫌いな食べ物がある。

ちなみに私は椎茸が嫌いだが、その椎茸は私に対して嫌われようとしているだろうか。

そんなわけはない。

嫌っているのは椎茸ではなく、私自身である。

つまり、自分の世界で、自分は椎茸を嫌っているのである。

自分に合わないのは、なにも相手が合わせてくれないからではない。

自分自身が合わせようとしないから合わないのだ。

 私は椎茸を好きになりたいとは思わない。

この先の人生の中で、大した問題ではないと思っているからだ。

転職ばかりしている人も、同じことが言える。

もし仕事をしなければいけない状況に追い込まれたら、必死になって良い部分をみつけようとするだろうし、自分から合わせようとするだろう。

世界は自分のためだけにあるのではない。

だから、こちらから歩み寄らなければ、決して手を差し伸べてはくれない。

でも、こちらから手を差し伸べれば、必ずなんらかの反応はしてくれるはずだ。

そして、その対象物の中に自分を見る。

そうやって、自分のいる世界を少しずつつくっていく。

自分の世界をつくるのには、忍耐が必要だ。

 

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2008年5月17日 (土)

大衆は考えずに行動する

大衆は個人の集まりではない。

一つの意思を思った、一つの生物だ。

私が思うに、映画「もののけ姫」の冒頭に登場したイノシシの化け物に似ている。

大衆という魔物の力は凄まじい。

ときに社会を大きく変化させることがある。

ときに人を殺すことがある。

大衆は正当性が擬制されているといってもいい。

だから、そこに客観性や批判性は生まれにくい。

権力者はそれを上手く利用しようとする。

だが、大衆性は絶対に必要だ。

それをないがしろにする情報屋は、くだらない。

しかし、絶大な力はときに諸刃の剣になる。

間違った選択をしないためにも、大衆を導く者の倫理観が重要になる。

そして、それを判断する個人の意思だけは失ってはいけない。

情報化が進んだ世界では、倫理観のない情報が錯綜する。

でも、大衆はそんなものに動じてはいけない。

どっしりと腰を据えて、本当に必要なときまで待機していればいい。

必要のないときに動いては、問題をややこしくするだけだ。

暴走はときに自らを破壊する。

それをよく知っている大衆こそが、この世界には必要だ。


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2008年4月12日 (土)

ペットショップは完全注文生産制をとるべき

 動物番組によく出てくる映像で、チーターなどの肉食獣がインパラなどの草食獣を襲いかかる瞬間を撮らえたものがある。

お茶の間の視聴者はそれを見て、〝やめて〟とか〝逃げて〟とかいう感想を持つ。

たとえそのチーターが5日間絶食状態であったとしても、飽和社会に生きる私たちがその状況を理解することは、インパラの危機を理解することよりもはるかに難しい。

それはわかる。

でも、ちょっと視線を落としてみると、食卓の上には食べ残したステーキがあったりする。

そこには、多少の矛盾を感じずにはいられない。

 家畜産業をなくしてベジタリアンになれ、などと言う気はない。

私も肉が大好きだし、肉を調理する度にその動物の死を悲しむのはバカらしい。

でも、その切り身の肉が、ついこの前までは命の一部であったことを忘れてはいけない。

切り身のなる木などないのだ。

そして、自分が肉を食べ残すことによって、無駄に命が消費されていることを知らなければならない。

仕留められたインパラは、決して無駄になることはない。

 知らないことは大罪だ。

あなたは全国の保健所で、どれだけの数の動物が処分されているのか知っているだろうか。

その処分方法を知っているだろうか。

私はそれを知って愕然とした。

知らなければ良かったとさえ思った。

だが、現実から目を背けることはできない。

背けることは、自分の手で動物を殺すことと変わりない行為だと思う。

 ペットショップで売れ残った子たちはどうするのか?

 あえて〝子〟と表現した。

なぜなら、たいていのペットは4ヶ月をすぎると商品としての価値がなくなるからだ。

4ヶ月など、人間ならまだ幼稚園に入る前くらいの年齢だ。

そんな子たちが、処分施設に送られたり、肉食獣のエサにされたり、動物実験の実験台にされる。

 〝どうしてそんなことを〟多くの人がそういう感情を抱くだろう。

しかし、それは自分には関係ないという思いこみからの感情だ。

あなたはペットショップに行き、ガラスのケースに入った〝子〟たちを見て、カワイイと思ったことがあるだろうか。

もしあるとしたら、それがいつまでたっても処分が減らない大きな原因の一つだ。

 ペットショップは経営されている。

国民のために慈善事業で行っているわけではない。

洋服や本や家電製品と同じ扱いなのだ。

経営者としては売れる物をたくさん並べたいと考え、ブランドやサイズや使い勝手の良さを世間のニーズから判断する。

でも、すべてのマーケティングが上手くいくとは限らない。

流行は廃れやすいから、ときに在庫が大量に余ることがある。

場所代やエサ代のことを考えれば、売れない子は値下げしてでも早く退かしたい。

それでもダメなら処分を考える。

(人としての感情を別にして)経営者としてはゴミ箱に捨てて、タダで処分してもらいたいところだろうが、それでは〝廃棄物〟処理法違反で罰せられるから、なくなく費用を負担して処分する。

 針金が巻き付いた野良犬や、矢が刺さったカモが報道されることがあるが、処分場で生きたままガス穴の中に自動的に落とされていく動物たちが報道されることは滅多にない。

あるとすれば、一日平均の処分数ぐらいだろう。

臭い物には蓋をしてきた現代人にとってそれは、刺激が強すぎて気分を害することになるだろう、という報道側の配慮があるのかもしれない。

 以前に、〝崖っぷち犬〟としてもてはやされた犬がいたが、あれを見て私は空想した。

保健所の動物たちが、あの崖のマス目に一匹づつ並んでいる光景を・・・。

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