哲学

2008年4月13日 (日)

感動は常にオリジナル

 私はこの世界のあらゆるものが、プラスマイナスゼロでできているのではないかと予想する。それはどういうことか。

 例えば、お金がある。

 貨幣は人類の発明の歴史の中で、一番優れた発明だという人がいる。

確かに、貨幣が生まれてより便利な生活ができるようになった。

しかし、その不利益な部分も便利さに比例して大きい。

暴力、裏切り、自殺、妬みといった、社会生活においてマイナスな感情をもたらすこともあるのだ。

ある一面をとれば利益しかないように思えるものでも、相対的に見れば不利益があたりを覆い尽くしている、といった構図があったりする。

核エネルギーや自動車やコンビニ、自然破壊や死刑制度やニートなども同じようなことが言える。

利益が注目されているようなものは、不利益が見にくい。逆もまたしかり。

 私は最近、〝感動〟というものですらそうなのではないかと考える。

〝感動〟と聞いて悪いイメージを持つ人は少ないだろう。

しかし、感動が人を殺すこともありえるのではないかと思っている。

例えば、最近あった無差別殺人事件のニュースの中で、犯人のかばんの中から暴力表現の強いゲームソフトが出てきた、という報道があった。

もちろんそれだけで人が人を殺すとは思わないが、少なくとも彼はそういったゲームに感動したはずだ。

その感動は、普通の人が映画や小説やスポーツなどで得る感動と違うものだろうか。

私は同じものだと思う。

違いがあるとすれば、彼の感動が計り知れないほど大きなものだったということではないか。

大きな感動は、不利益な部分も同じぐらい大きい。

 子供が生まれたことで自分自身も大きく変われた、と多くの人がいう。

それは、プラスの感動がもたらしたものだ。

不利益を考えれば、養育費やしつけや夜泣きといった問題がある。

しかし、そういった不利益は、その感動によっていちいち表に出てこない。

たとえ顔を出したとしても、子供の笑顔を見たら忘れてしまうほど、たいていは小さな攻撃の連続でしかない。

その一方で、親が子を虐待したり、ときには殺してしまうことがある。

それはなぜか。

プラスの感動が小さかったということもあるだろうが、それよりも、マイナスが一気に押し寄せた可能性が高い。

ワニワニパニックというゲームを思い出してもらえばわかりやすい。

初めは一匹づつ顔を出していたワニが、終盤になると次から次へと出てくる。

ゲームなら終わりがあるが、育児は苦楽を繰り返しながら果てしなく続く。

プラスの感動という武器では手に負えなくなった親は、誰かの手を借りるか、その場から立ち去るか、電源を切るしかない。

感動は手入れが必要であり、足りなくなったら補充する必要がある。

 プラスの感動はインパクトがあって注目するから、一度に押し寄せてくることが多い。

一方で、感動によるマイナスは、ボディブローのように細切れで襲ってくる。

そのボディブローをないがしろにしていると、いつの間にかダウンしている自分に気づく。

そうならないためにも、感動したときは浮かれすぎず、その不利益に目を向け、早いうちに対処しておくことが大切だろう。

逆に言えば、何もないことを悲観する必要もない。

何もないことは、不利益もないということだ。

つまり、その状況を自分が納得できれば、感動など必要ない。

 感動は常にオリジナルだ。

誰かに感動しろと命令されても、感動できるものではない。

だからこそ、自分しか触れることのできないその感動を、自分自身がしっかり管理しなければならない。

たくさん感動を味わえば善い人間になるとは限らない。

管理しなければ、不利益なものもたくさん詰まっているに違いない。

世の中は、正義や悪といったものを一方的に注目しがちだが、これは〝感動〟という名の一心同体物である。

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2008年4月10日 (木)

死後を考えてみる

 死んだらどうなるか?
 
 これまで、どれだけの人間がこの疑問を抱き、答えを模索してきたことか。

結局、どんな答えも想像の枠を越えることはできず、最終的には宗教などによるぼんやりとした観念を持って、その日を迎えることになる。

 死は恐怖の対象として絶大な力があるが、その反面、魅力的な一面をも持っている。

卑弥呼も織田信長も坂本龍馬も三島由紀夫も、歴代総理大臣も歴代東京大学学長も歴代ノーベル賞受賞者も歴代ジャイアンツ4番バッターも、アインシュタインもサルトルもコペルニクスもガガーリンも知ることの出来なかったもの。

にもかかわらず、どんな人間にもおとずれることになる。

こんな魅力的なものがあるだろうか。
 
 昔のある名俳優の言葉がある。

「死を味わった人間の演技に勝てる奴はいない」

 そこで、私の少ない経験から得た知識を振り絞って、死後の世界を考えてみた。

 まず、生まれ変わることはあるか? という疑問。

私はないと思う。

その理由は、もし生まれ変わるとしたら、この世界にいる生物の総数は、どの時代をとっても一定の数だけしかいないことになる(もし地球以外に生命体のいる星があったとして、すべての星で一定数というのもやはり考えにくい)。

 天国や地獄はあるか?

私はないと思うが、そもそもこの質問自体に違和感を覚える。

なぜならこの質問は、この世が〝普通〟の位置にある世界ということが前提であって、それを挟むような格好で天国と地獄という世界がつくられている。

ひょっとしたら、実はこの世が地獄で、死ぬことによってようやく普通の世界に戻れる――例えば死んだ瞬間、この世ではない〝普通の世界〟にいるおっさんが自分に手を差し伸べてきて、「ようやく罰ゲーム終了だな。みんな待ちかねてたぞ。さあ、お前の番だ。サイコロを振ってくれ」なんてことを言われるかもしれないのだ。

 暗闇に放り出されるのか?

暗闇すらないのではないか。

私が思うに、この世で一番死に近い感覚は、深い眠りだと思う。

くたくたに疲れて家に帰り、知らないうちにソファで寝ていて、気づいたら朝だった、なんて経験をしたことがある人も多いだろう。

そのとき、あなたは暗闇を意識していただろうか。

その間の時間の経過を意識していただろうか。

死はそれよりももっともっと深いと考えれば、暗闇だとか時間だとかいう概念はあまりに小さすぎる。

地球が生まれて約50億年と言われているが、そんな果てしない時間の流れを、あなたは意識して生まれてきただろうか。

 死の恐怖から逃れるにはどうしたらいいか?

完全に逃れるためには死ぬしかないだろうが、恐怖を軽減させる方法はある。

それは宗教などと同じく、観念をもつことだ。

でも、受け入れるだけではなく、自分から生み出すことがよりいっそう重要だと思う。

 まず、なぜ死が怖いのかを考えてみる。

例えば、痛みや苦しみがあるのではないかとか、家族が悲しむのではないかとか、どんな状態に自分が置かれてしまうのかとか。

 次に、死の魅力を考えてみる。

例えば、悩みや苦しみから解放されるのではないかとか、向こうは実は楽しい世界なのではないかとか、誰も知らないのに誰もが味わうこととはどんなものかとか。

 そうやっていろいろ考えることが、自分のためだけの死の観念をつくる。

はっきりとした答えは出なくとも、何も考えて来なかった人よりずっと冷静にその日を迎えられるはずだ。

 最後に興味深い話として、悟るために日々精進しているある修行僧の話がある。

彼らは常日頃から、自分の頭上1メートルほどの高さに浮かんでいる大きな岩を想像しているそうだ。

それが落ちるときは死ぬとき。

つまり、死はいつも身近にあり、ちょっとしたことでおとずれるようなものなのだ、という観念を常に持ち続ける訓練をしている。

死を考えることは生物として正常な証だ。

死を考えることを放棄してはいけない。

 余談だが、無差別殺人犯の声明で、「すべての人間を殺して、自分も死にたかった」といった類のものを聞くことがあるが、私の観念からしたら、そんな面倒なことをする必要はない。

時間の流れのところで話したことだが、死は時間の観念を完全に消し去る。

となれば、自分が死ねば時の流れはなくなり、その瞬間、この世にあるすべての物事は死を迎えているはずだ。

そう考えると、自分だけが家族や恋人と離ればなれになることはありえず、みな同時に死ぬことになる。 

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