感動は常にオリジナル
私はこの世界のあらゆるものが、プラスマイナスゼロでできているのではないかと予想する。それはどういうことか。
例えば、お金がある。
貨幣は人類の発明の歴史の中で、一番優れた発明だという人がいる。
確かに、貨幣が生まれてより便利な生活ができるようになった。
しかし、その不利益な部分も便利さに比例して大きい。
暴力、裏切り、自殺、妬みといった、社会生活においてマイナスな感情をもたらすこともあるのだ。
ある一面をとれば利益しかないように思えるものでも、相対的に見れば不利益があたりを覆い尽くしている、といった構図があったりする。
核エネルギーや自動車やコンビニ、自然破壊や死刑制度やニートなども同じようなことが言える。
利益が注目されているようなものは、不利益が見にくい。逆もまたしかり。
私は最近、〝感動〟というものですらそうなのではないかと考える。
〝感動〟と聞いて悪いイメージを持つ人は少ないだろう。
しかし、感動が人を殺すこともありえるのではないかと思っている。
例えば、最近あった無差別殺人事件のニュースの中で、犯人のかばんの中から暴力表現の強いゲームソフトが出てきた、という報道があった。
もちろんそれだけで人が人を殺すとは思わないが、少なくとも彼はそういったゲームに感動したはずだ。
その感動は、普通の人が映画や小説やスポーツなどで得る感動と違うものだろうか。
私は同じものだと思う。
違いがあるとすれば、彼の感動が計り知れないほど大きなものだったということではないか。
大きな感動は、不利益な部分も同じぐらい大きい。
子供が生まれたことで自分自身も大きく変われた、と多くの人がいう。
それは、プラスの感動がもたらしたものだ。
不利益を考えれば、養育費やしつけや夜泣きといった問題がある。
しかし、そういった不利益は、その感動によっていちいち表に出てこない。
たとえ顔を出したとしても、子供の笑顔を見たら忘れてしまうほど、たいていは小さな攻撃の連続でしかない。
その一方で、親が子を虐待したり、ときには殺してしまうことがある。
それはなぜか。
プラスの感動が小さかったということもあるだろうが、それよりも、マイナスが一気に押し寄せた可能性が高い。
ワニワニパニックというゲームを思い出してもらえばわかりやすい。
初めは一匹づつ顔を出していたワニが、終盤になると次から次へと出てくる。
ゲームなら終わりがあるが、育児は苦楽を繰り返しながら果てしなく続く。
プラスの感動という武器では手に負えなくなった親は、誰かの手を借りるか、その場から立ち去るか、電源を切るしかない。
感動は手入れが必要であり、足りなくなったら補充する必要がある。
プラスの感動はインパクトがあって注目するから、一度に押し寄せてくることが多い。
一方で、感動によるマイナスは、ボディブローのように細切れで襲ってくる。
そのボディブローをないがしろにしていると、いつの間にかダウンしている自分に気づく。
そうならないためにも、感動したときは浮かれすぎず、その不利益に目を向け、早いうちに対処しておくことが大切だろう。
逆に言えば、何もないことを悲観する必要もない。
何もないことは、不利益もないということだ。
つまり、その状況を自分が納得できれば、感動など必要ない。
感動は常にオリジナルだ。
誰かに感動しろと命令されても、感動できるものではない。
だからこそ、自分しか触れることのできないその感動を、自分自身がしっかり管理しなければならない。
たくさん感動を味わえば善い人間になるとは限らない。
管理しなければ、不利益なものもたくさん詰まっているに違いない。
世の中は、正義や悪といったものを一方的に注目しがちだが、これは〝感動〟という名の一心同体物である。
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